いい加減ブログ

いい加減なブログです。

見えない、限られた中で

(この記事は運命などのカルト的発言があります。前もってご注意ください。)

 

 

 

 新年早々、「死」に関するニュースが3つも目に入った。餅による窒息死、故意による車の暴走での事故、そして旅先での高波による事故。わずか4日で3件であり、3つ目の事件に関しては自分とほぼ変わらない年齢である。

 よく「死ぬときは運命的に決まっている」と聞く。事故であれ、逆に九死に一生を得たことであれ、その時に死ぬこと・死ななかったことは決まっているという話である。

 Twitterでは3つ目の事故の被害者を弔う言葉で溢れている。上の説で言うならば、なぜ運命は彼を選び、彼をこの年齢で、あの場所で人生を終わらせたのか。神のみぞ知るとしか言いようがない。

 

 彼にとどまらず、才能ある人間が若くして亡くなるというニュースを見る。なかには既に自分の年齢がその人の享年を上回る人もいる。そのたびに「なぜ彼(彼女)が死んで、自分が生きているのか」と疑問に思う。そんなところまで気にする必要はないとわかっていてもどうしても疑問である。「彼が生きられなかった時間を自分が生きて、足跡を残す必要はあるのか」と、不要な十字架を勝手に担いでいる。

 かといってその人の代わりにはなれないので、こうしてブログにつらつらと自分の言葉を残すだけである。こうしているうちに人は謎の十字架に押しつぶされ、耐えられなくなった人が精神病や死の選択をするのだろう。

 

 当然自分にも残された制限時間はあるのだろう。とりあえずその時間までは自分で制限時間を早めたくないものである。卒論で精神がやられている今はとくに気を付けたい。というか本当はその制限時間を卒論に使いたくないのだが。

 

 こんなことを人が亡くなる度に少し考え、やがて忘れ、記憶にない十字架が背中にどんどん増えながら自分は生きていく。

 

 

 最後に、遅くなりましたがこの度の事件・事故で亡くなられた方々にお悔やみを申し上げます。